母と歩いた東京

断捨離をしていたら、メモ帳に13年前に書いた書きつけが見つかった。
メモ帳を処分するする代わりに、ここに書き直しておこう。

中学一年の時、私の左顎に腫瘍が見つかった。
幸い良性だったのだが、母は私を連れて、新橋の慈恵医大病院まで何度も連れて行ってくれた。

当時、回転寿しの店があちこちに出来始めていた。初めての受診の日、母と私は恐る恐る戸を開けた。
新橋の駅前のその店内は狭く、サラリーマンが数人座っていた。
二人は、回ってくるお寿司の皿をドキドキしながら手にとった。
味は今ひとつであったが、楽しい体験であった。

雑然とした街は、いかがわしい看板も多く、私達は道を選びながら病院への道のりを歩いた。

古めかしく暗い病院で診察を受け、顎下腺の腫瘍摘出のため、私は一週間の入院をすることになった。唾液せんから造影剤をいれてする検査はとても痛かった。

入院すると、大学病院のためか、様々な検査を受けた。
手術の日のことで覚えているのは、全身麻酔を受ける時、どうしても起きていられなかったこと。成り行きを見ていたかったのに。三つまでしか数えられなかった。
目覚めた時の痛み。泣いちゃだめと看護婦さんにたしなめられたこと、退院までの退屈さも覚えている。
お味噌汁を飲めるようになったのは、手術後初めて飲んだ塩気がとても美味しかったから。それまで飲めなかったことが、今となっては驚きだ。

母は毎日来てくれて、世話をしてくれた。
母が帰ったあと暗くなってから、廊下の窓から見た東京タワー。
ライトアップされたその姿は、家から遠く離れていることを実感させた。

退院後も検査の度に、母に連れられて東京を訪れた。
てくてくと歩いた広い広い日比谷公園
大人のまち、銀座での昼ごはん。
ロシアの民芸店で買ってもらったマトリョーシカ
有楽町の駅。当時はまだ雑然とした雰囲気もあった。

母は暗い病院の空間の後に、必ずなにかしら楽しみを用意してくれた。
母にとっても、若い頃に歩いた東京歩きは楽しかったのかもしれない。
しかしそれだけではなかったと思う。
病院通いの辛さを誰よりもよく知る母の思いやりが今も身に沁みる。

いつか、子どもを連れてあるいてみたいものである。